手話というコミュニケーションの表現力

手話で会話している人たちを見かけるたびに、「ああ、コミュニケーションだ」と感じます。

もう5年前の話。あるスタバのテーブルで、手話で談笑する一団があった。にぎやかだった 。静かだった。

Twitter / Takashi Hamaji

僕のこの表現が適切かどうかわからないのですが、口で言葉を発する会話に比べて、彼ら/彼女らはとても表現豊かに見えるのです。手話だから手の表現が、というだけではなく、顔の表情や、身体全体から発しているメッセージのようなものを含めて、「自分の思っていることを相手に伝えるべく、表現している」ように見えます。

もちろん、彼ら/彼女らが使っている手話という手段は、口で言葉を発する会話に比べて大きな制約があるはずです(だと推測するのですが、間違っていればすいません)。その彼ら/彼女らの「表現力」に比べて、僕のコミュニケーションの表現力の弱さといったら。

うらやましささえ感じます(この「表現」が誤って伝わらなければいいのですが)。僕は、口で言葉を発することができるのに、そのありがたさや意味を意識せずに、なにげなく暮らしてしまっているのではないかな、と。甘えているのではないかな、と。

同じ内容を、もうずいぶん前にブログかその前のいわゆるテキストサイトに書いた記憶があるのですが、失念しました。

存じ上げない方のTwitterから引用しました。このTwitter上のどなたかのつぶやきは、tumblrで見つけました。